『夏への扉』と『日本のいちばん長い日』

本日、Amazonで注文していた書籍が届いた。

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近所の本屋では置いていなかった。Kindle版もあるのは知っていたけど(そして『日本の〜』は実はKindle版でも持っているんだけど)、紙の本で読みたかった。Kindleって気になった本をどんどん購入できるのはいいんだけど、物理的に目に見えないから、意識して読まないと「積読」というか「Kin読」になっちゃう。ダウンロードして安心、みたいな。特に『日本の〜』は登場人物も注釈も多いため、紙のほうが「えーとこの人は前にどんなことを言っていたっけ」と確認しやすいと思い、改めて紙で買い直したわけです。

夏への扉』は、昨年友だちから勧められて「読んでみようかな」と思っていた一冊。たまたま時期が夏の終わりだったので、「せっかく『夏への扉』というタイトルなんだから、どうせなら夏の始まりに読みたい」と思い、今日のきょうまで取っておきました。

前回のブログにも書いたけど、最近アタマの老化が進み、小説・物語の世界観にスッと入っていけなくなった。しかもSF・ファンタジーは昔からあまり得意ではない。現実とかけ離れた世界を理解するのに時間がかかるので、それはつまり昔からアタマが固かったのかもしれない。

そんな私だが、昨年別の友人から勧められて『戦闘妖精雪風』というSFシリーズを読んだのだ。これがとても面白かった。「なら、『夏への扉』はSFだけどもっと読みやすいよ。面白いから読んでみなよ」ということで、本の表紙を眺めているだけでちょっとワクワクしてくる。というのも、私は『夏への扉』がどういう話だか、まるっきり知らないのだ。

かなり有名なSF小説なので、「知らない」ほうが珍しいかもしれない。ただ、タイムトラベルと猫が出てくるということは知っている。それ以外はまったく知らないし、あえて事前に情報を入れないようにしてきた。

なのでここからは、『夏への扉』がどんなストーリーなのか、勝手に想像してみることにする。

映画(しかも日本映画)になるくらいだから、おそらくラブ要素はあるだろう。10代後半から20代くらいの男女が主人公ということにする。設定は未来。

この男女は長く付き合い、いよいよ結婚する予定だったが、その前日、女性がヨットの事故で死んでしまった(夏要素)。本来なら彼も一緒にヨットに乗るはずだったが、彼の方に何かの用事ができ、同乗できなくなったのだ。ヨットツアーの参加者のなかには助かった人もいたが、何が原因でなぜ彼女が不幸にも亡くなったのか、わからなかった。

彼は同乗しなかったことを悔やみ、彼女を助けるべくタイムトラベルの研究を始める。彼女が飼っていた子猫がただ1つ彼に残された癒しであり、猫に向けて自分の後悔と彼女への愛を囁く。生き残ったヨットツアー参加者たちに、彼女の最期について聞く。

年月をかけ、とうとうタイムトラベルを現実化した。目指すは事故が起こった10年以上前。飼い猫も連れていく(猫は長生きだから)。彼は飛び入りで件のヨットツアーに参加し、なぜ彼女が死んだのか、何が原因だったのか、隠された真相を知ることになる(具体的に何なのかは聞かないで)。

事故を防ぐことができ、彼女は死ななかった。その途端、タイムパラドックスが起こって未来から来た彼は消滅してしまう。消滅する瞬間、彼は彼女に「愛している」と告げ、スウっと大気に飲み込まれた。猫も同じく、鈴の鳴る首輪を残して消えた。

だったらなぜ、彼の衣服が現場に残らないのか疑問だけど、それはタイムトラベルの仕様で「人間の衣服は消え失せる」条件だということにする。

彼女は鈴の付いた首輪を拾い、結婚式の準備に向け、彼の元へと向かった。

 

うーん、たぶんホンモノは全然違うストーリーだと思う。この妄想とどれだけ違うのか、いまから読むのが楽しみです。

ブログタイトル「hontogohan」とは

この日記は「hontogohan」、つまり「本とごはん」というタイトルだけど、いまのところ本のネタもごはんの話も出てこない(まだ2回目だけど)。

ごはんは(当然ながら)毎日食べているので、何かしら書くことはあるのだけど、正直外食もままならないコロナ禍、特筆すべきことがない「自炊ごはんのことを延々と書いてもねェ……」と躊躇している状態だ。

それならおいしそうな写真でも撮って、お茶を濁す……じゃなくて、工夫してコンテンツを仕上げればいいのかもしれないが、まず私は写真がとても下手だ。一眼レフでときどき練習しているものの、アイキャッチになるようなおいしそうなごはんの写真は撮れないし、そもそも家の食卓で「さあこれから食べよう」という時に一眼レフを取り出し、何度もシャッターを切ってこだわりの一枚を撮るというのはとてもめんどくさい(←いつもこればっかり……)。スマホで撮ろうにも、私の持っているiPhone 8はまだカメラ機能がそれほど高度ではなく、印象感高い写真に不可欠な「ボケ」ができない。スマホを買い換えるか、写真の腕を上げるか、それとも料理の腕を上げるか、何かが変わらないとごはんネタができないのだ。しかも昨年11月からダイエットを続けているため、コンビニのサラダチキンだけ、という時も多い。

でもいいや、これはあくまで個人的な日記だから。

もう1つの「本」のほうはどうか。実は最近、本当に本を読まなくなってしまった。読むとすると、仕事で必要な本、自己啓発書(すぐ「めんどくさい」といわないように!)、発作的に起こる英語勉強欲に合わせて買ったテキスト&ペーパーバック、たまにドキュメンタリーとか。昔は小説とか物語が本当に好きだったんだけどな……。

なぜ小説を読まなくなったのか、昨夜その理由を考えてみたところ、どうも近年「小説世界に頭をアジャストできない」ことに気が付いた。説明が難しいのだが、小説の世界にうまく入り込めないというか、物語の世界観を理解するのに時間がかかるようになったのだ。

「自分」と「小説に描かれている登場人物や世界」が若干ずれてきたのかもしれない。私は今年で五十歳になるが、五十歳の働く女性(しかもフリーランス)が主人公という小説はあまりないように思う。そういう立場の人が、世の中には少ないのかもしれない。だから主人公になりにくいのかもしれない。「五十歳主婦」「五十歳兼業主婦」「五十歳女性会社員」「五十歳離婚歴あり」という方は多少いらっしゃるかもしれないが、「学校卒業してから結婚歴がないまま会社員からのフリーター(≒フリーランス)生活、現在親の介護もちょっとやってる」というと、相当レアケースなのかも。

かといって、上に書いたまんま「学校卒業してから結婚歴がないまま会社員からのフリーター(≒フリーランス)生活、現在親の介護もちょっとやってる女性」が主人公のフィクションを読みたいかといえば、全然読みたくない。現実と同じなのに、なんでわざわざフィクションを読まねばならないのか。ここが難しい。

物語の世界観をスッと理解しにくくなったということは、言いたくないけどやはり老化なのだろう。頭が硬くなった、理解度が低くなった、だからあまり小説を読まなくなったような気がする。

これは気を入れないと、将来ヤバいかも。いまはまだ、七十代八十代の高齢者世代に対して「古い考えだ」と意見をいえたとしても、近い将来自分の頭も硬くなり、新しい価値観や考え方を受け入れられなくなったら目も当てられない。若い世代にバカにされるのはいいとしても、現実の世の中の変化を受け入れることができなければ、心がつらくなる。生きて暮らしていくことも困難になる。

コンテンツがたくさんあるこの世の中、古い小説も新しい小説も、話題の本や映画、音楽も、できるだけ楽しむほうが、人生に絶対にプラスになるはずだ。せっかく「hontogohan」というタイトルを付けたんだし、気になる本やコンテンツを楽しみ、食を大事にするように心がけようと思う。

とりあえず「ネットで日記」始めました

いまさらネットで日記なんて、90年代の感覚だ。個人の日常を垂れ流してどうする、という意見もあるだろう。正直、私もちょっとだけそう思う。

けど、ネット上で「見てもらえる作品を作らなきゃ」とか、「読まれるにはどうすればいいか」とか、いちいち考えるのはほんとにめんどくさい。

もちろん、面白くて読みやすい、親しみやすいものを創ったほうが、多くの人に見てもらえるし、共感してもらえることは理解している。

でも、そういうのをすっ飛ばして、思いつくままダラダラと日常や感じたことを書き連ねたい時だってあるんだー。平安時代だってそういう人が多かったはず。『蜻蛉日記』なんて、その典型だったのではないかと思う。「勝手に自分の思いを書き綴るだけだけど、ちょっとだけ周囲の人が読んでくれたらうれしいなー」みたいな。90年代のネットの日記(ブログではない)なんて、みんなそんな感じだった記憶がある。

実はnoteのアカウントもあるのだが、noteはなぜかハードルが高い。読まれることを意識して、ですます調の文体で書いているのも理由の1つかもしれない。ですます調って、私にとって「外向けの文体」という意識があるせいか、無理して書きました感がアリアリになる。その分、表現や内容にはものすごく気を配るようになるけどね。

でも、常にすました状態で、仕事でもないのに日々何かネタを発信できるかといえば、私にはちょっと無理なので。それよりも、「あれがおいしかった」とか「この本おもしろかった」とか、どうでもいい話をちょっとずつ書いていく方が面白そうな気がする。そんなの公開する意味がないかもしれないけど、それはさっき書いたみたいに、「勝手に書くけど、ちょっと誰かが読んでくれればうれしい」という感覚で、「これを伝えなきゃ!」「共感を呼ぼう!」という強い思いはまったくない。

noteの方は、ちょっとおすましした、仕事で感じる問題意識とかを発信する場になると思う。そのぶん、はてなで遊ばせてもらいますー。